|目指すのは全世界のあらゆるものについて「そうだよね」とゆるせる領域
私はヨガの練習を通じて「そうだよね」と否定も肯定もせず、すべてのことをゆるせる状態を目指しています。
大人になると
「あんなヤツたいしたことないから放っておけよ」
「くだらないことに労力使うほうが時間の無駄」
「ひとことガツンと言わないとわからないんだよ」
とかアドバイスされたり、自分で思い込んだりしながら、感情を抑え込んだり、爆発させたりして、一時的にその不快感から逃げようとしがちです。かく言う私も何年もそうしてきましたし、今もたまにしてしまいます。
また、自分自身や大事な人に対しての明らかな攻撃とか、理不尽すぎる出来事とか、悲惨な事件とか…
「そうだよね」とただそのままであることをゆるすのがどうしたって難しいことが山ほどあります。
でも、最終的には「そうだよね」と愛情を持って受け容れられたらいいなと本気で願っています。
|「ゆるす」=「やられっぱなしになること」ではない
かつての私にとって「ゆるす」は、悲しみや怒り、悔しさをなかったことにして、表面上は何事もないように振る舞うことでした。ここまでの文を読んでそう捉える方もいらっしゃるかもしれません。
そうではないことをきちんと説明しておきたいと思います。
今の私にとっての「ゆるす」は否定でも肯定でもなく、その行動が不可逆なものであること、起こった結果がもたらす自分や他人の感情を、ただそのままそこに存在することを、ありのまま受け容れることです。
イメージとしては、村の長老のような人が自分の中におく感じでしょうか。
村人たちが何か揉め事を報告してくる様子を、ただ優しく見守って、耳を傾ける。
村人たちは、「あいつが先に手をだしてきたんだ!」「そっちが悪いだろ!」とか好き勝手自分の言い分をわあわあ言ってるのだけど、それを否定も肯定もせず、ただ聞く長老。
「ゆるす」というのは長老が、村人たちの意見に耳を傾ける行為に似ています。
|ゆるすためのヨガの練習は「意図を持って行う」
マットの外で起こっていることと、マットの上で起こることは、必ず連動しています。
だから、日常生活の問題も、マットの上で取り組んでいくことができるし、それができるのがヨガの良いところです。
「このヨガの練習を通して何を実現したいですか?」
この質問を毎回のクラスの前に生徒さんにしていますが、私も毎回自問自答しています。
私の場合、その時々で具体的な課題は違いますが、だいたいその先には
「○○について、”そうだよね”とフラットに思えるようになる」
のを意図して練習に取り組むことが大半です。
意図を持って練習に取り組むことで○○について、さまざまな気付きが生まれてきます。
実際のヨガの練習の中では、一見そのことと全然関係ないようなこと、あるいは、まさに!ってことが、両方起こります。
頭の中だけでなく、身体全体でその出来事に向き合っていく感覚が得られます。
|ゆるしてから、何をするか
村人の話を聞いた長老が、その知恵をもって彼らに解決策を授けるのと同じように、ゆるしたあとの行動もまた、以前の脊髄反射とは違う反応ができるようになります。
→自分の問題なのか相手の問題なのかを明確にして、相手の問題ならば自分からは手放す
共感性の高いHSPが苦手としていることですが、個人的な実感としてはこれだけでも問題の大半が解決してしまいます。ヨガを嗜む人たちの多くが、性格的に執念深さを感じさせず、さっぱりした印象を受けるのも、ヨガの練習を通じて自他の区別をつける感覚が磨かれているからだと思います。
さらに
→問題解決の必要があれば、解決策について真剣に話し合う
→誤解があるなら解く
→自分が改善すべき点があれば改善する
→足りない点があるならば成長するための努力をする
…etc
これらの行動を、脊髄反射や、誰かの基準ではなく、自分の中の(長老の)知恵を以て行動に移していくことが本当に「ゆるす」ことなのだと思います。
|問題の根っこはつながっている
さて、ここまでの流れを「正直面倒くさい、感情を押し殺しちゃったほうが楽」「それって、無限に続きそう」と思った方もいらっしゃるでしょうか。
個人的な実感としては、たったひとつの些細な不快感も、奥で別のものとつながっていることが多々あり、それを丁寧に扱うことで、別の関連するあれこれについてもズボッとまるごとゆるせるようになります。
だから、決して無限につづくわけではないし、どんな不快感や苦しみであっても、大切な村人のひとりとして、まずは話を聞いてあげることが大事なのだろうなと感じています。
ですので、ぜひ、面倒臭がらずに、ヨガの練習を通して、私と一緒に長老をめざしましょう♪(あれ違う!?)